孤児500人の95歳母が半生記
1945年の東京大空襲で家族を失い、
戦後は戦争孤児らの母親代わりとなって
福祉施設で働いてきた女性が、その半生を冊子にまとめた。
500人を超える子供たちから「お母さん」と呼ばれてきた女性は、
彼らに寄り添ってきた年月を
「自分の娘が『私の代わりに育てて』と言っている気がしたから」と
振り返る。
冊子「炎の中、娘は背中で…」は、空襲から63年目となる10日に出版される。
現在、東京・国分寺で妹と暮らす鎌田 十六 ( とむ ) さん(95)の
自宅には、夫・茂さんと実母うめさんの遺影があるが、
一人娘の早苗さんの写真はない。
「生後7か月で、写真を撮る間もなく逝ってしまったから」だ。
63年前の3月10日未明、空襲で空が赤く染まる中、
当時住んでいた浅草区(現台東区)の自宅から
逃げ出した十六さんは、
娘を背負ったまま隅田川に転落した。
刺すような冷たい水に意識が遠のく中、
背中だけがわずかに温かかったことを覚えている。
意識が戻った翌朝、死体の山の間を歩いて
避難所にたどり着いた時には、背中の娘も既に冷たくなっていた。
お地蔵様のような顔にヤケドの跡が痛々しかった。
「私が助かったのは、背中が 濡 ( ぬ ) れなかったから」。
十六さんは今も「娘に助けられた」との思いがぬぐえない。
一緒に逃げたはずの夫の遺体は1週間後に川底で見つかり、
母とは生き別れになったままだ。
新しい「家族」に巡り合う転機は、
1年後の46年3月、上野公園で戦争孤児たちを見たことだった。
「娘が引き合わせてくれた」。
十六さんは板橋区にあった都養育院で
孤児たちと一緒に暮らし始める。
同院には戦後、繁華街からトラックで孤児らが次々と連れて来られた。
100人近い孤児を2人で世話した時期もある。
盗みや脱走を繰り返す子どもを追っては、
交番や学校を謝って歩いた。
子供たちから「お母さん」と呼ばれるうち、
十六さんは笑顔を取り戻していった。
添い寝をした子供に朝、「僕の母さんのよう」と言われたのも思い出だ。
その後、別の児童養護施設の寮母になった。
70歳で退職するまで、養育院時代を含めて
育てた子供は500人以上にのぼる。
結婚式に母親代わりに出席を求め、
「母さんの教えを今、子供に伝えています」と
近況を手紙にしたためてくる元孤児もいる。
「普通の人の何百倍も、家族の思い出をもつ私は幸せ」と話す
十六さんだが、死んだ家族のことを忘れた日はない。
大空襲の日から現在までの道を冊子にまとめたのも、
「家族を奪った戦争のことを今の人に忘れてほしくない」からだ。
「長生きしちゃった」と笑う十六さん。
語り部としての責任をかみしめる。
冊子は500円。
問い合わせは編集元の東京大空襲・戦災資料センター
(電話03・5857・5631)へ。
goo ニュース
東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、
第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた
東京に対する一連の大規模な空襲。
東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが
「東京大空襲」と言った場合、
特に、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月10日に
行われた空襲を指すことが多い。
太平洋戦争に行われた空襲の中でも、
とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。
3月以降も東京への空襲は容赦なく続けられた。
3月10日に次いで被害の大きかったのは
5月25日で、470機が来襲し、
それまで空襲を受けていなかった山の手が主な対象になった。
死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸の被害となった。
3月-5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。
また、多摩地区の立川、八王子なども空襲の被害を受けている。
その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。
東京大空襲 - Wikipedia
戦後は戦争孤児らの母親代わりとなって
福祉施設で働いてきた女性が、その半生を冊子にまとめた。
500人を超える子供たちから「お母さん」と呼ばれてきた女性は、
彼らに寄り添ってきた年月を
「自分の娘が『私の代わりに育てて』と言っている気がしたから」と
振り返る。
冊子「炎の中、娘は背中で…」は、空襲から63年目となる10日に出版される。
現在、東京・国分寺で妹と暮らす鎌田 十六 ( とむ ) さん(95)の
自宅には、夫・茂さんと実母うめさんの遺影があるが、
一人娘の早苗さんの写真はない。
「生後7か月で、写真を撮る間もなく逝ってしまったから」だ。
63年前の3月10日未明、空襲で空が赤く染まる中、
当時住んでいた浅草区(現台東区)の自宅から
逃げ出した十六さんは、
娘を背負ったまま隅田川に転落した。
刺すような冷たい水に意識が遠のく中、
背中だけがわずかに温かかったことを覚えている。
意識が戻った翌朝、死体の山の間を歩いて
避難所にたどり着いた時には、背中の娘も既に冷たくなっていた。
お地蔵様のような顔にヤケドの跡が痛々しかった。
「私が助かったのは、背中が 濡 ( ぬ ) れなかったから」。
十六さんは今も「娘に助けられた」との思いがぬぐえない。
一緒に逃げたはずの夫の遺体は1週間後に川底で見つかり、
母とは生き別れになったままだ。
新しい「家族」に巡り合う転機は、
1年後の46年3月、上野公園で戦争孤児たちを見たことだった。
「娘が引き合わせてくれた」。
十六さんは板橋区にあった都養育院で
孤児たちと一緒に暮らし始める。
同院には戦後、繁華街からトラックで孤児らが次々と連れて来られた。
100人近い孤児を2人で世話した時期もある。
盗みや脱走を繰り返す子どもを追っては、
交番や学校を謝って歩いた。
子供たちから「お母さん」と呼ばれるうち、
十六さんは笑顔を取り戻していった。
添い寝をした子供に朝、「僕の母さんのよう」と言われたのも思い出だ。
その後、別の児童養護施設の寮母になった。
70歳で退職するまで、養育院時代を含めて
育てた子供は500人以上にのぼる。
結婚式に母親代わりに出席を求め、
「母さんの教えを今、子供に伝えています」と
近況を手紙にしたためてくる元孤児もいる。
「普通の人の何百倍も、家族の思い出をもつ私は幸せ」と話す
十六さんだが、死んだ家族のことを忘れた日はない。
大空襲の日から現在までの道を冊子にまとめたのも、
「家族を奪った戦争のことを今の人に忘れてほしくない」からだ。
「長生きしちゃった」と笑う十六さん。
語り部としての責任をかみしめる。
冊子は500円。
問い合わせは編集元の東京大空襲・戦災資料センター
(電話03・5857・5631)へ。
goo ニュース
東京大空襲(とうきょうだいくうしゅう)は、
第二次世界大戦中アメリカ軍により行われた
東京に対する一連の大規模な空襲。
東京は1944年11月14日以降に106回の空襲を受けたが
「東京大空襲」と言った場合、
特に、規模が最も大きい1945年(昭和20年)3月10日に
行われた空襲を指すことが多い。
太平洋戦争に行われた空襲の中でも、
とりわけ民間人に大きな被害を与えた空襲として知られている。
3月以降も東京への空襲は容赦なく続けられた。
3月10日に次いで被害の大きかったのは
5月25日で、470機が来襲し、
それまで空襲を受けていなかった山の手が主な対象になった。
死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸の被害となった。
3月-5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。
また、多摩地区の立川、八王子なども空襲の被害を受けている。
その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。
東京大空襲 - Wikipedia







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